昭和54年4月23日 朝の御理解
御理解第50節
「とかく信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
お願いしておかげを頂くということと、ひとりでに物ができるようなものというのは違うと思うです。だから私共は、やはりその両面ができていかなければなりません。昨日、朝の御祈念に大分の臼杵から四名の方達が参って来ました。あちらから熱心にこの頃、参って来た人達があるおかげを頂きます。それで難儀な病気をもっておる方達にお話をして、ところが、体がそんなわけで悪いからお参りができるか、できんか分らんから、前の日に「どうぞ、お参りができますように」というお届けがしてあった。まぁ臼杵から、ここまで、何時間か、かなりの時間をかけてお参りをして来るのですから、やはり病人にはこたえると、こう思うのですけれども、昨日、ここへ出て見えて、もう二人の方達が帰って行かれる時に、皆さんに喜んで帰られたということが、もう本当に、まぁ素晴らしい。もう、ここへ着いた途端におかげを頂いた(感動)。一人は人前でこうやって座られないほどしに足が痛む方だったけれども、それが、おかげを頂かれて座れるようになったということ。一人の方はこれは、まぁ病名は、よう私は聞きませんでしたけれども、もうとにかく、来る道々、合楽が近くなるに従って身体が軽く楽になった。普通から言えばですね、あちらから5、6時間もあかかりますでしょうか。そういう長い間、車に乗ってくるんですから、もうきつい。途中で帰らにゃならんごたる。とこういうことが、本当じゃるごたるけれどもね、ここへ着くと同時に、もうとにかく、こんなにさわやかな気分の良い気持ちになったことは、最近はもう初めてと言うて、喜んでお礼を言って帰られましたが、帰る道々も、もう大変な喜びで、こうして、だた今、あちらへ無事、着かせて頂いたという電話がございました。まぁ、そういう不思議な神様でもあるわけですよね。皆さんも体験し、皆さんも見たり、聞いたり、いつもしておられるわけなんです。今度、選挙でたくさんの人の御取次をさせて頂いといます中に、こういうお届けがあったんです。町長さんとその議員さんなんですけれども、二人、町長さんが立っておられます。それでその、今までの町長さんというのがね、もう非常に真面目で忠実で、もうとにかく、町民に対して、もう実に親切な行き届いた方で、しかも実に正直な方です。とこう言う。もう村の評判は「絶対、この人だ」というふうになっとりますけれども、今度、私の親戚から立つのです。だから「どうでも、ひとつ当選のおかげを頂きくように」という願いであったんです。みなさん、どうですか。神様は正直で、真面目で、忠実で、しかも町民に信用もある。第一、とにかく正直な方なんです。とまぁ、相手の立派なことを「そりゃ、そげな立派な人が町長さんになったがよかろうもん」と言いたいところですけれどもね、そこに、御取次の働き、願いというもんは違うんですね。例えば、それが悪人であっても、悪い人間であってもです、まぁ、その方が悪い人間であってはならないのですけれども、とにかく、「人の良いのと悪いのと、信心しておかげを受けるというのは別ものと仰しゃるが、この辺だなぁ」と私は思いました。そこで私は、あることをですね、いうなら伝授いたしました。ここで。そういう、いうならまぁ、普通からいうならね、立派な人が町長さんになってもらったがよいけれども、親戚の者がこうして立ったからねとこういう。私は、その時に「丁度、操り人形がね、もう後に操る人がある。その下は、もう、どれだけあるか分らんというような断崖絶壁に飛び込もうとするところを、後の操りで、こう引き止めるところ」を頂いてんですよね。だからね、結局、「一心を本気で貫く」というあるこれは、あることですを申させて頂きましたが、そのことを約束して帰られました。昨夜、遅う電話がかかってきて、「おかげで当選のおかげを頂いた」とこういうわけなんですね。だから、おかげというのはね、今申しますように、初めて参って来て、しかも、その合楽に近づいてくるに従って、身体が軽うなり、こんなに気分のよい、しかも2人の人達がです、共におかげを頂くということは、もちろん、お導きした人の信心によることであしょうけれどもです、とにかく合楽には、もう生々として、それこそ、お金を預けるに来るような気持ちで参ってくる。そして昨日、今日の起工式のことを聞かれてですね、「明日もぜひ、自分とお家の方と二人で、ぜひまた、お参りをしたいから」と言うて電話がかかりました。そういうね、もう、とにかく遠いとか近いとか、もう問題じゃないほどしに、生き生きとして心を向けてくるということが、やはり、おかげを頂くもとになりますようですね。お願いがあるけん、お参りせなじゃごて、といったようねものじゃない。もう神様へ、合楽へ自分の心が向かってしまっておる。それに全然、分からない二人の人までも、そういう助かりを頂いておる。そして、また、明日も、また参って来るというのです。ね。喜びが有り難い、生き生きとしているというのは、そういうようなもんです。そういう心をいよいよ頂かせてもらわなきゃなりませんね。同時に今の町長さんと町会議員さん、それが二人とも当選のおかげを頂いたというて、まぁ、お礼の電話があっとります。いわゆる町長さんのように、どんなに考えても勝ち目のない、しかも敵方からみても相手の方は立派な方なんだということですね。もう、第一正直である、ということがね、その町民の信用を長年、町長して来られたという、なんかがあるらしいんですけれども、今度はそれが逆さまになった。反対になった、というほどしのおかげを頂いたね。そこにね、いよいよ心を豊かにしなければならん、その前提にある心に、いうならば、こういうふうな肥料を、これから作っていくことを私がお願いに見えた時に誓わした。それは本人に信心がない方ですから、私がぜひ、そのことだけは、実行させてもらうということなんでございましたがですね。心を肥やすというてもね、長年信心しておるから「肥える」ということじゃないでしょうが。まぁここで言われれば、「地の信心に極まったと。一切を黙って治めていく」という。昨日の御理解を引用するならば、いうなら「ミミズ」のようなものをいっぱい地面の中に放しておきますと、非常に立派な素晴らしい、よい土になるそうですね。そういう、いうなら働きをもって、いよいよ土地を、いうなら豊かにするというか、心を豊かにしていくということになるわけでしょうけれどもね、まぁ、合楽で言えば「土の信心に極まった。そこに一切を黙って受けていく」といったような生き方の中に、心が嫌が上にも肥えていくのでしょうけれども、私はその黙って受けていくという、もう一つ向こうの心のことです。その向かう心にです、いうなら、心が弾んで生き生きとしたね、この生き生きとした心が、どのようにかにして頂かせてもらうかね。共励会でも中心になる人達がね、もう長年の共励会をいたしておりましても、生き生きとしておりますと、その共励会場が生き生きとしてきます。新しい共励会なんかは、なんとはなしに、今の話じゃないけれども、もうとにかく有り難いの一念で共励会をしておるから、なんとはなしに生き生き、それが続けられる心が、私は豊か心だと思うんですね。ただ、なんとか、ちょっと素晴らしいおかげを頂いたから。心が喜び踊ってくる。成程、そういう心は生き生きとした心なんです。だから、そういう生き生きとした心。三代金光様は「日々が新」と仰しゃたね。その新な心がね、持ち続けられる心、そういう心をもって、いうならば、いよいよ和賀心が豊かになることの精進をさせて頂いて、「初めてひとりでに物ができる。」といったようなおかげになるのじゃないでしょうか。何十年間、肥料をやり続けておるというだけではなくてです、そういう生き生きとした新なる心。田んぼを私は、詳しくは知りませんけれどもね、一年作ったら、五年、六年も休まなければものがでけんといったようなものらしいですね。それが毎年、毎年、それが作って、できるようなおかげを頂くというのがですね、そういう手立て、そういう信心をもって、いよいよ心が豊かになっていくおかげをね。成程、心を豊かにするということは、黙って治めるということなんですけれども、土の信心に極まったですけれども、その極まったというその、もう一つ、向こう心の中に、私共の心の中に生き生きとした、いうならば土壌がね、養われていかなきゃならない。そこに初めて「ひとりでにものができる」という、御神徳の世界があると思うのですね。
金光様の御信心によると、今、二つの例を聞いて頂きましたがね、臼杵の方のいわば、初めてお参りをして、ここへついた途端に、おかげを頂いたという、もうその喜びようは、というものは大変。矢野先生のお知り合いの方ですから、矢野先生、そのことを大変喜んで帰られたと。そして、また、あちらに着いて矢野先生にお礼のお届けがあっとたが、また、なら私宛に、また電話がかかってきた。そして、おかげ頂いて皆さんの喜びが、「明日はどうぞ起工式に、ぜひお参りをさせて頂きたい」というような、もう本当に生き生きと。だから、そういう心が持ち続けれれる、手立て、信心、信心の稽古とは、そういうところにあるとこう思うのです。そういう心で、いよいよ土の信心に極まったという時にです、初めていよいよ土が嫌が上にも、豊かな、いうならば土壌が生まれてくる。いよいよ「ひとりでにものができるようなおかげを頂ける」ということは、そこんところをであるというふうに私は思うのです。どうぞ。